Friday, March 03, 2006

新刊のお知らせ/new release info


えーっと、去年書いた本が3月10日に発売されるそうです。
3月10日ってのは60年以上前になりますが、東京大空襲のあった日で、それについてラジオ・ドキュメンタリーを10年以上前に作ったんで、それなりに思い入れのある日付けです。

本は空襲にはほとんど関係なく、「人工社会」です。あんまり何のことか、分かりにくいかもしれないので、下記にちょいと紹介しておきます。機会があれば近所の本屋や図書館でぱらぱらして、感想や御意見をお聞かせ下さい。

また、これに興味を持って、紙や電波、ウエッブサイトにブログなどの媒体で紹介していただける方はご連絡下さい。何冊か、宣伝/書評用があるはずです。


てなわけで、ここより宣伝。

人間は社会の中に生まれ落とされます。それはたいていの場合、なし崩しになんとはなしに出来上がった社会の場合がほとんどです。都市計画なんてのはバンドエイド、応急処置な場合がほとんど、社会のデザインも後追いビートになりがちです。

これとは反対にある種の計画、理念、意図を持って作られる社会があります。人工社会です。人類「最初」の出来合いの社会の枠の外に共同生活を始める実験は、哲学者ピタゴラスが南イタリアで紀元前525年に作ったホマコエイオン(Homakoeion)という社会だとされています。主知主義、神秘主義を唱え、男女の平等と菜食主義が特徴のコミューンだったそうです。同じころ、インドでは仏の教えに従う人たちが出来合いの「世俗」を離れ、アシュラムに集い、修業しながら共同生活をおくるようになります。紀元前2世紀には 禁欲と財産共有を特色とするユダヤ教の一派、エッセネ派の共同社会が死海周辺地域で生まれ、その後各地に似たような宗教的な共同社会が生まれる走りとなります。最近では60年代の終わりから70年代にかけて、対抗文化とかヒッピーの流れで、あちこちにコミューンと呼ばれる共同体社会が生まれました。こうした人工社会、最近ではインテンショナル・コミュニティ(意図的な社会)とひとくくりされ、あちこちで集落が生まれ、議論が深まってきています。

オーストラリアは「先進国」のひとつで、ここ数年、周囲の心配を他所にそれなりの経済成長を続けてきた。たしかに周りを見回すと、「便利で豊か」な社会が広がっている。でも、それでみんな幸せになったのかと、ひと皮めくってみると、「ここではないどこか」に理想郷を待望する気分が広く社会に充満していて驚いてしまう。裕福で便利な社会ではない、「別な場所」や共同体を待望する空気が社会の底を流れている。徴候はあちこちにあり、出来合いの産業化社会への代替、対抗として意図的なコミュニティがあちこちで生まれている。エコ・ビレッジだったり、コハウジングだったり、コミューンだったり。オーストラリアのあちこちで人工社会の実験が進んでいます。

エコハ・ビレッジは本当に環境負荷の少ない社会であり、21世紀の社会一般のモデルとなりうるものなのか。パーマカルチャー式なエコビレッジって、どんなものなのか。コハウジングの現場は隣人同士が面倒を見合う昔ながらの価値を備えた社会なのか。個人の自由、共同社会の利益の境目はどこに引かれるべきなのか。共同社会の意志決定過程はどれ程「民主的」なのか。これらの試みは所詮、中産階級の現実逃避主義で、何年かしたら失敗せざるを得ないものなのか。失敗したら投げだせばいい、無い物ねだりの空想主義なのか。これらの小規模社会での実験が社会全体に適用できるものなのか。一般社会はこれらの共同社会をどうとらえているのか。理想社会の主義主張と相容れない「他者」との折り合いはどうつけるのか。これらの共同体暮らしは時代に逆行するものなのか、それとも新世紀的な暮らしなのか。
などなど。

そんなこと、いろいろ調べているうち、それらの現場を訪ねてみたくなりました。

はっきりとした答えはどこにも見つからないかも知れません。その一方で、自分の波長に合う場所が見つかれば、そこに引っ越しても構わないと思う。今暮らす場所は悪くはないが、自宅の裏の墓場にホネを埋めようと思うほどの入れ込みも未練もない。また、ふらふらとどこかへ流れていくのもそれはそれで、いいんじゃないかと思う。

実験の現場や、夢の轍の跡を訪ね、他人と一緒に暮らすことについて考え、その実体がどんなものか考えてみる。理想と現実、計画と現実の間にはどのくらいのギャップがあるのだろうか。

てな視点、気分で、各地に現存する共同体や理想郷、そして史跡を訪ね、ユートピアとの距離を探り、垣間見える現代オーストラリア社会を素描した私的な旅行記です。

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