Tuesday, July 17, 2007

食のグローバル化ではなく、ローカル化

日本ではWTO(世界貿易機構)や自由貿易協定や経済連携協定の締結といった形で貿易の自由化の促進が声だかに叫ばれています。5月8日には経済財政諮問会議・グローバル化改革専門調査会からEPAの加速、農業改革の強化をうたう第一次報告書が発表され、大手マスコミから大きくもてはやされています。

経済財政諮問会議・グローバル化改革専門調査会というのは2001年1月に設置され、経済財政に関する重要な事をいろいろ調査審議するという機関です。グローバル化にあまりに熱心すぎるとか、出てくる「グローバル化」も米国の年次改革要望書の内容通りなものが多いとか、まあ、そういう批判が自民党の中からもあるようです。自分のことを棚に上げて、今更、んなこと言えないでしょうってな気もするし、この団体がグローバル化にしゃかりきな報告書を出すこと自体、その名前からもわかるように、あんまり驚くことじゃありません。それがこの団体の存続理由なんですから。

でも、米国べったりのグローバル化推進機関の出した第一次報告書を、大手マスコミが真っ当な批判もせずに持ち上げるとなると話は別です。

アサヒ新聞は5月10日の社説で大ヨイショしてます。
「わが国は農業保護が足かせになって貿易交渉を進められず、自由貿易の拡大という世界の流れから取り残されそうになっている。市場開放に耐えられる農業にしないと農業以外の国際競争力まで落ちる、という危機感が背景にある」。

そうかと思えば、トーキョー新聞はWTOドーハラウンドの決裂を受けた6月25日の社説で「自由貿易体制強化への動きを止めてはならない。日本は事態打開へ積極的に汗を流すべきだ」と政府や国民を煽ります。貿易の自由化で関税など農産物の国境措置が撤廃されれば、国内農業への打撃が予想されますが、それについて同紙社説は「痛みは避けて通れないが、むしろ、意欲のある担い手育成などの好機ととらえて自由化がもたらす痛みを克服する」べきであると結論しています。

ウハーッ。

21世紀に入り、世界各地で「市場原理」や「競争原理」の破綻を目にしているはずなのに、相変わらずこれらを金科玉条にして、すべてをゆだねようとする態度はどこから来るのでしょうか。なにか、これらのマスコミは隠し持った情報があるのでしょうか。疑問です。

グローバル化改革専門調査会がぶち上げ、マスコミが後押しする近代的で経済効率的な農業とは、単一作物を大規模な農場でなるべく人手をかけずに栽培する。それを何千キロも離れた市場に大規模流通させる。それが「カネになる」農業の中味なのですが、それはこれからも継続可能なものなのでしょうか。また、「安い食品」はどこにあるのでしょうか。いつまでも手に入るものなのでしょうか。たとえ、経済効率的な農業が「消費者」にはありがたいものでも、「生活者」のためにはどうなのでしょうか。

こういう言説を聞くと、いま、自分たちが呼吸するのがどういう時代であるのか、わかっているのか、疑問になります。何を口にして生きているのか、これから何を食って生きていくつもりなのか、それをはっきり把握し,そのうえで政策を提言したり、モノを言い、自由を律していかないと、その影響をもろに受ける自分の児孫から後ろ指を指されるのではないかと心配です。私たちはとても希有な時代を生きています。それは、これまでの「常識」があまり通用しない時代であり、あたりまえがあたりまえでなくなる時代です。

私たちの生きるのがどれほど特異な時代であるのか、英国政府のエネルギー政策諮問委員会のメンバーを務めるジェレミー・レゲットは、人類はふたつの大量破壊兵器を突きつけられていると表現します。「ひとつは、欧米経済を破壊し、実質的に資本主義そのものを破綻させることのできる、経済的な時限爆弾。もう一つは生態系を、すべて破壊させることができる生物兵器である」(「ピーク・オイル・パニック」作品社より)。

人類を脅かすふたつの大量破壊兵器とはもちろん、ピークオイルと気候ゲテモノ化のことです(一般的には「地球温暖化」といわれますが、何か、ほんわか,ぬくぬくと温かくなっていくようで,あんまり危機感を喚起しないので、エイモリー・ロビンスなどにならい「気候ゲテモノ化」という表現を使うようにしています)。

気候ゲテモノ化時代についてはかなりひろく認識されていますが、なかにはまだ、自分の目の黒いうちは大丈夫だ楽観する人も多いようです。ゲテモノ化時代はすでに始まっており、いま、それが現実なのです。すでに「季節外れ」だの「記録破り」なんてフレーズが連発され、これまでの気象記録や記憶、常識が使い物にならない、未曾有の領域で何が起こるかわからない、そんな時代に人類はすでに足を突っ込んでいます。環境ゲテモノ化時代はすでに始まっている、そのことをまず、肝に銘じておかなければなりません。そして、どれだけ非経済的で非効率的であろうとも、人間の食べるものはすべからく、自然という制約の中でしか生産しえないのです。

たとえば、日本の貿易自由化論者があてにする国のひとつにオーストラリアがあります。食肉、小麦、大麦では世界第二位の輸出国であり、オージービーフだとか、コメ、生鮮野菜などを日本に輸出している国です。同国は日本との間に最近「安保共同宣言」を結んだ国でもあり、ハワード政権は日本との間に経済連携協定を結ぼうと熱心に呼びかけています。頼りにしても大丈夫なように見えますが、さて、生産基盤のほうはどうなのでしょう。気候ゲテモノ化時代に、この国はこれまで通り、日本や世界の消費者のために安い食品を作り続け供給することができるのでしょうか。

オーストラリアはここ数年、第2次大戦末期の干ばつ,そして,1901年の連邦結成当時の干ばつなどが比較にならないほどの干ばつに喘いでいます。6月に入り、シドニーやメルボルン近辺では大雨があちこちで洪水を引き起こすほどの勢いで降り、シドニーの水瓶ワラガンバ・ダムは久しぶりに5割を超え,それが大きなニュースになるほどです。しかし、それでも、州政府は淡水化プラント施設の建設を決めています。お隣、ビクトリア州でも同様の施設の建設が発表されたばかりです。各地で送水用パイプラインの建設も進んでいます。これから水不足の恒常化は避けられない。それが一致した見方です。

まあ、60年に一度,もしくは百年以上に1度の規模の干ばつ、なんてのは頼りになる記憶や記録があり,なるほどって思いますが,「千年に一度」なんて表現も飛び出すほどの干ばつです。うーん,これは白人の入植(侵略)以前のことだぞ。先住民族の記憶に基づくものなのでしょうか。それとも「史上最悪」を言い換えただけなのでしょうか。

もちろん、ゲテモノ化時代は未曾有の領域であり、何が起こるかわからない、それが基本であり、水不足の恒常化と洪水が隣り合わせで存在してもまったく不思議ではありません。年間降水量の辻褄はあうかもしれませんが、降れば土砂降り、でも、次の雨がいつになることやらわからない。そんな降水状態では、人間にも植物にも使える水の量は限られてしまいます。

オーストラリアの農業を支えてきたのは大陸の南東部内陸に広がるマレー川/ダーリング川流域です。もともと降水量は少ない土地ですが、ここでコメや小麦や大麦、綿花に食肉など、全国農産物の4割が生産されています。最近ではワインの生産も盛んです。金額ベースで輸出の1/4を稼ぎ出し、オーストラリアを世界有数の食料輸出国にしてきたのは、この流域です。

しかし、この地域の乾燥ぶりは壊滅的です。農業資源経済局(ABARE)の2月の発表によれば、昨冬の小麦、大麦、菜種は軒並み6割減。夏作物のコメの作付けは90%も減っているそうです。しかも、これが近年の「千年に一度の干ばつ」だけが原因ではなさそうなことの方が長期的にはもっと重大です。塩害や富栄養はすでに数年以上前から指摘されており、長年にわたる無茶な取水に頼る農業のおかげで流域の生態系はひん死の状態です。ちょっとやそっとの乾燥にも耐え、寿命が500年から1000年に達することもあるレッドガムと呼ばれるユーカリの木さえ枯れ始めています。事の重大さに重大さに気づいた連邦政府は100億ドルの予算で、流域再生計画を打ち上げていますが、乾いた大陸から水を搾り取る環境収奪型の農業をこれからの時代、どこまで続けていけるのか、はなはだ疑問です。

気候ゲテモノ化の時代には恒常的な水不足,干ばつだけでなく、突風やサイクロンなど「異常気象」も多発し、大型化する、ブッシュファイヤーも頻繁になると言われています。

2006年3月には、オーストラリア北部を大型サイクロン「ラリー」が襲来しました。これがゲテモノ化時代の所産であるのかどうか、それはともかく、このサイクロンのおかげで、バナナの値段は急騰しました。バナナ生産の9割近くが集中していたからです。とたんにバナナ不足という事態になり、他の果物や野菜の値段を押し上げ、物価全体を押し上げることになりました。

単一品種を数少ない場所で生産することは,経済効率的かもしれませんが、ひよわであることをさらけ出した例です。値段は少々高くなっても、バナナがいろいろな場所で少しずつ,あちこちで作られていれば、一ケ所がサイクロンに襲われてもうろたえることはありません。「安い」農産物には、こうしたリスクを内包しています。しかも、こんな規模のサイクロンや颱風やハリケーンがごろごろ来る時代、気候変動を引き起こした張本人である人間は、そのつけを払う覚悟しておかなければなりません。

気候ゲテモノ化にはピークオイルという醜い双子がいます。レゲットが「資本主義そのものを破綻させることのできる、経済的な時限爆弾」と表現する、もうひとつの大量破壊兵器です。気候ゲテモノ化ほどには知られていませんが、こちらも壊滅的な破壊力を持っています。

ピークというのは「頂点」のことで、ピークオイルというのは有限であるアブラを半分採掘し尽くした時点のことです。アブラはまだ、これまでに使ったのと同じだけの量が残っているのですが、いったんピークに達してしまえば、それ以降、どれだけ、設備投資をしようが、どれだけ技術革新が進もうが、生産は下がり続けます。

人間というのは、何にしても楽に掘れる場所から掘り出すものです。わざわざ数千メートルの深海やアラスカの凍土から先に手をつけることはありません。そして、精製に手間のかからないアブラから手をつけます。石炭のいとこのようなタールサンドや、重質なオリノコ原油など、精製に手間のかかるアブラがつい最近まで見向きもされなかったのはそれが理由です。まだ半分残るアブラは、これまでのように簡単に手に入る良質なものではなくなります。ピークオイルというのは、安いアブラ(チープ・オイル)がふんだんに使える時代は終わった、終わろうとしていることです。

150年前に発見されて以来、アブラは私たちの生活を大きく変えてしまいました。自由貿易論者があてにするような安い農産品を遠隔地から手に入れられるのも、安いアブラがあるからです。結果として、よりたくさんの人口を養えるようになった大きな理由もアブラにあります。安いアブラのおかげで、「戦後育ちの我々は、食品価格というものは下がるものだとばかり思い込んできた」(英国インデペンデント紙6月23日付けの記事)のです。近代的で経済的な農業生産、流通、消費の過程はどれをとっても「チープ・オイル」抜きでは成り立ちません。

パーマカルチャーの開祖、デビッド・ホルムグレンが「オーストラリアの牛乳は20%が石油である。ヨーロッパではおそらく50%。そして、イスラエルの酪農のやり方を見る限り、イスラエルで手に入る牛乳は80%が石油だ」(「パーマカルチャーの原理,そして持続可能性を超えた道筋」より)というように、われわれの食物には大量のアブラがしみ込んでいます。

アブラまみれの農業生産は、、すでにピークから大きく揺さぶられています。チープ・オイル時代の終わりは「食料が安い(チープ・フード)」時代の終わりも意味します。大量にしみ込んだアブラの値段が上がるにつれ、食品の値段も上がるだけでなく、限られた面積の農地や水を代用アブラの生産に使おうという要求が高まり、食品の高騰につながります。上記インデペンデント紙の記事はこれをアグフレーション(農業とインフレーションの合成語)と呼んでいます。

「去年1年、英国では穀類価格が12パーセント上昇し、世界市場における乳製品は60パーセ ント値上がりした。コメの価格は世界中で上昇中だ。ヨーロッパにおけるバターの価格は昨年、40パーセント上昇し、小麦の先物は、この10年間で最高値で取引されている。大豆の価格は5割上昇、中国における豚肉価格は昨年にくらべ20パーセント上昇、インドの食料品価格指数は11パーセント上昇した。メキシコではトルティーヤの値段が60パーセント上がったため、暴動になった」(上記インデペンデント紙の記事より)。

オイルピークの訪れで安いアブラが手に入らなくなるにつれ、トウモロコシや砂糖、キクイモ,大豆などの作物をクルマの代用アブラに振り向けようとする圧力が高まります。バイオ燃料生産は世界中で急ピッチで進んでおり、たとえば、世界の食物輸出の2/3を賄う米国では来期収穫予定のトウモロコシの3割がエタノール製造に向けられることになっています。農作物をクルマの燃料にするか、それとも人間や家畜の食料にするのか、農地の利用法をめぐる争いはすでに始まっており、これが農産価格を押し上げているのです。

バイオ燃料は「再生可能」な農産物から作り出されますが、耕作可能な土地や水,肥料など,生産の条件には限りがあり、どれだけ反収をあげようと、無限に生産を伸ばすことはできません。たとえば、2006年度、全世界の穀物収穫は20億2000万トン、ここ5年の平均を上回る史上3位の豊作でした。しかし国連食料農業機関の報告によれば、世界の期末備蓄量、つまり次の収穫までの備蓄は57日分にまで減っているそうです。これは生産が頭打ち状態であるにも関わらず,消費需要は急増しており、備蓄の切り崩しが進んでいる、ということになります。

食料にするのか、それともクルマの燃料にするのか、地球上で生産可能な農産物の使い道を巡る競争はオイルピークの影響が本格的に現れるにつれ、激化していくことでしょう。言葉をかえれば、自由貿易論者があてにする「安い食品(チープフード)」を見つけるのは次第に難しくなるのです。食品はどんどん安くなる、そういう「常識」はアブラ生産が右膝下がりになる時代には通用しないのです。近場の農業が多少痛手をこうむろうが、遠隔地から安い食品を持ってくるから大丈夫というような考え方はアブラが減少する時代には、成り立ちません。自分の子供や孫のことを思うなら、自分たちの口にする食品からいかにアブラを抜いていくか、それを考えなければなりません。

さて、食物からアブラを抜いていくにはどうしたらいいのでしょうか。環境ゲテモノ化時代に「骨太な」食生活を構築するにはどうしたらいいのでしょう。
食のグローバル化という政策への対抗軸としては、食のローカル化が有効です。「国」の食料自給率を上げるべきだと声だかに叫ぶ方法もありますが、一人一人が意識改革をし、自分のからだから一滴ずつアブラを抜く努力をしない限り、それも空論に終わってしまうでしょう。まずは、地球のはてからアブラまみれで届く食品を拒否するところから始まります。グローバルな食生活、食の経済に慣れたからだには大変なことのようにも思えますが、食のローカル化は簡単にイメージできます。自分を中心に、同心円に広がる水の波紋を想像し、なるべく自分に近い場所で食料を確保することを心がければいいのです。国民皆農なんて言い方もありますが、食のローカル化はまず、「王様」と不当に祭り上げられてきた「消費者」の座から自ら進んで退位して「生産者」の地位を再獲得することから始まります。

都会のアパート暮らし、ねこの額ほどの庭もない人も、あきらめることはできません。「生産者」はアパートのベランダ、屋上、どこでも始めらるところから、生産しなくてはなりません。最初からすべてを賄おうというわけじゃありません。できるところからできるペースでゆっくりと、自らを「生産者」に変えていけばいいのです。近所に空き地があるかもしれないし、共同菜園があるかもしれません。もうひとつ、輪を広げて、同じ地域のプロの農家と提携していくこともできます。あくまでも生産者として、同一の地平にたちながら。こうやって、一人一人が食の生産に取り組み、食の経済をローカル化していく。一人一人がそういう視点を持ち、自らの手を土に突っ込み、口にするものからアブラを抜いていけば、国の食料自給率も自然に高まるでしょう。

環境ゲテモノ化時代、そしてオイルピークという時代、生き残る戦略は食のグローバル化ではなく、ローカル化です。

「増刊現代農業」8月号への原稿

Wednesday, July 11, 2007

そろそろ/a goodbye to this damn nation (damnation).

アルゼンチンでは首都のブエノスアイレスにたぶん1918年以来の雪が降り、パンパスも数センチ程度だそうですが雪に覆われたそうです。そうかと思えば、タラナキが先週竜巻に襲われたばかりのニュー・ジーランドの北島、今週はサイクロン級の雨風がオークランド以北を水浸しにしています。

これでも環境ゲテモノ化時代のまっただ中にいることを疑うなら、役立たずな目も皮膚感覚も耳もきっぱりと削ぎ落とした方がいいでしょう。

そして、原油価格は高騰を続け、需要と供給は逼迫状態が続いています。オイルピークの方も容赦なしで進行中です。これまで楽観的な「予測」ばかりをたれ流してきたIEAも、7月の報告書(これは無料リンクのpdf)で「ちょっと問題が」なんて言い始めてます。衰えたとは言え、曲がりなりにも産油国のイギリスでは大手メディアが大きく取り上げてますが、「アブラの大消費国」日本では相変わら知らんぷり、ですねえ。大丈夫ですか。ほおかむりしていて。今月の参院選とかでピークを争点に取り上げないと間に合いませんよ。

と、人のことばかり心配してもいられない。自分自身で取りかかれるところから取り組まないと。

なんて言いながら、減量を始めたのはかなり以前のような気がしますが、それでもまだまだ、そぎ落とさなければならない贅肉が腰の周りこびりついていて、わずらわしいったら。時間も残されておらず、贅肉の処分に躍起になっています。ひえーっ(と言いながら、明日は夜汽車に乗ってブリスベンへ音楽三昧の週末にでかけます。ああ、待ち遠しい)。

来月引っ越す村には因縁のように引き寄せられていたのかもしれない、って書きましたが、実はこの村とはニュー・ジーランドにでかける前に出会っていたのです。

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(近所の漁港から村はずれ、農場のある丘を見上げる)

去年の末,ばたばたと慌ただしく出発前に書いたブログのエントリーのひとつに、かの国のエネルギー・気候変動担当大臣、デビッド・パーカーのスピーチの訳出がありました。現職の大臣が「ピーク」を口にすることは滅多にない,しかも,それを正面から取り上げることもない。しかも,「ピークは重大だけど,環境変動の方がもっと危急の課題だ」って文脈で取り上げたのでした。そこまで理解している人が適材適所についている。ニュー・ジーランドってすげえなあと思ったものでした。しかも,そんなスピーチが人口300人程度の村で行われたってところにも感動したことを覚えてます。

それがこの村との最初の出会いだったのでした。

もちろん,この時は、まさかブログの上で「人口300人そこそこの村」と表記したこの村に出かけることになるとは夢にも思わず、現地を旅行し始めてからもすっかりと忘れていました。

そのことは、村外れにある物件を見に行って、気にいってからもまったく、脳裏の片隅にも浮かびませんでした。

さて、これはありそうかなって気がしてからも気は許せませんでした。何しろ、引っ越しはこれでおしまい、やりたいと思ってもピーク以降の時代、そんなに簡単にできるわけがない。やり直しはできず、後戻りもできない。あちこち、漂流してきた人生もこれで打ち止め。慎重の上にも慎重にならざるを得ません。骨を埋める場所です。

だから、物件を見に行った翌朝、おじさんに「相棒が数週間後に帰国したあと、もう一度戻ってきて、一週間くらいウーフさせてくれませんか」って、図々しくも申し出たのでした。断られて当然な厚かましい願いを、おじさんたちは二つ返事で快諾してくれました。波長がどこかであってたのかもしれません。

ここはどうしてこういうデザインなんだ。なぜ、この木はここに植えたんだ。なんて、それから一週間、重箱の隅を突っつくように非の打ち所をさがしましたが見つかりません。ウーフなんて言ってもほとんど作業らしいことはほとんどなし。肥料にする海藻を海岸に集めにいったくらいで、あとはあれやこれや、村や近隣の町を案内してくれるのについて回るだけ。あっという間に一週間が過ぎてしまいました。

滞在中、何日目かに政治の話になり、エネルギーの話になり、くだんのデビッド・パーカーが地元選出(先の選挙では選挙区で落選、比例で復活)であることを知りました。ああ、そう言えばあの大臣、去年の暮れにこれこれこういうスピーチをしたねと思い出して尋ねると、ああ、あれは通りを下ったとこにある、村の集会場でだ。そもそも、この村のエネルギーフォーラムが主催した集会でのことだ。ええっ。そうなの。奇遇と言えば奇遇、因縁と言えば因縁を感じました。

呼ばれるようにしてたどり着いたその村に、オーストラリアから環境難民がふたり、あとひと月もしないうちに流れ着きます。

Tuesday, July 10, 2007

長いお別れ・その2/a second long goodbye.

一時は30羽もいた鶏も徐々に行き先を見つけてやり、ついには一羽もいなくなり、朝も夕も、ちょっと気抜けするくらい、勝手の違う日々になりました。これまでは台所に鶏用のバケツがあったのに、それもなくなり、これまた、ちょっと寂しいくらいに勝手が違います。あっけらかん。
あと、10日もすれば、ネットの接続も切れてしまいます。彼の地へ移動し、新しく接続するまで,ブログの更新もこれまたお休みになりますが、皆様、ご了承ください。そうそう、これまでのメールアドレスも使えなくなりますので、まだ応急の連絡先を知らせていない方、早急にご連絡くださいませ(業務連絡)。

さて、これから引っ越していく村を実際に訪れたのは,もとはといえばその村に魚屋があったからでした。

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(北島,カイタイアの釣り道具店の看板)

南島最大の都会(といっても人口は30万)、クライストチャーチから物件を見ながら南下して、たどり着いたのがオァマルの町でした。人口は1万2千人ほどですが、1860年代に絶頂を迎えるゴールドラッシュの頃からの町で,その頃のカネで贅沢に建てられたライム・ストーン建築の豪壮な建物が、どしんどしんと鎮座する町です。そういう歴史の重厚さが現実に目に見える形で残る町並みってのには目がない方なので、近所に泊まることにしました。

宿のおかみさんから近所の話を聞くと、漁港が近くにあるということでした。そう聞いたら,たちまち,生の魚を手に入れたくなりました。ニュージーランドは島国で,どこの町にも魚屋の一軒や二軒ありそうなものなのに,これがどこにもない。ときどき、スーパーで売っているところもありますが、かなり、いい加減で魚と肉と野菜の区別もほとんどつかない店員が番をしてます。ネイピアの漁港,クライストチャーチの町中には何度でも通いたくなるような魚屋がありましたが,それは例外で、新鮮な魚はなかなか手に入らないのです(小さな魚屋は、かつてはどこの町にもあったのに、スーパーの進出で駆逐されてしまったのだとあとで知りました)。

宿のおかみさんに詳しく尋ねると、さっそく隣村の魚屋に電話してくれ,残っている魚を予約してくれました。その魚屋のある村に引っ越していくだろう、なんて、その時にはちっとも思いませんでした。隣にコンピューター・ショップを構える兄ちゃんが,お隣というだけの脈絡で魚屋の店番をしていて、なかなか、のほほんとしていい感じ。その晩は久しぶりで、タラの一種、ブルー・コッドの新鮮なところにありついたのでした。

村を再び訪れたのは、それからまた二、三日してからでした。

あたりをうろうろし,いくつか物件を眺めた夕方、たまたまのぞいた不動産屋の窓にその村のはずれにある物件が並んでました。土地は15エーカーで,なんとか,手の届きそうな値段です。不動産屋のお兄ちゃん,「ここはちょっと変わっているんだ」とか言いながら、先日空撮した写真を見せてくれました。興味をそそられ,いますぐにも見に出かけたかったのですが、今日はもう遅いから,明日,見に行けるように手配をする。そういうことでした。まだ,午後の4時くらい,しかも夏は日が長いので、まだまだ、見に行けそうな気分でしたが、まあ、ニュージーランドの不動産屋のペースにもすっかり慣れっこになっていて、そういうことですか。じゃあ、また明日。と分かれて、宿に向かったんですが、またぞろ,新鮮な魚が食べたくなってきました。あっ、それじゃ,先日の魚屋に行きましょ。とロゴでぶるんぶるん。

魚屋には先日のコンピューターショップのあんちゃんがいて,あれやこれや、話のついでに,くだんの物件がどの辺りにあるのか,そんな話になりました。そのうち、自ら漁に出る魚屋の店主が奥の方から出てきて,ああ,その物件なら知っている,案内しようか。ってな話になり,それじゃ,周りからだけでも見ておこう。あんまりひどかったら,明日、見に行く予定もキャンセルして、次の町を目指そう。と。魚の代金を払うと,早速ロゴに飛び乗り,魚屋のあんちゃんのトラックのあとを追いました。

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(海の見える丘の上にある農場)

農場の表まで案内され,魚屋の店主に礼を言って,相棒と二人,柵の外からのぞいていると中から、おじさんが出てきました。物件を外から見にきたというと,中からも見ていけという話になり,それじゃあ,まあ,お言葉に甘えてお邪魔しました。

夕立のあと,沖あいには虹がかかっています。うーん、偶然にしてはなかなか,でき過ぎです。

夕暮れ時,そろそろ晩飯時にもかかわらず,おじさんはそれからたっぷり2時間、案内してくれました。

おじさんは鳥が好きで,鳥の来る場所にしたかったと言うことで,近所では「木男」と呼ばれるほどに、広さは6ヘクタールほどの農場はびっしりと植林されています。丘の上まで木という木を刈り取り牧場にするのがあたりまえなニュー・ジーランドでは、なるほど「ちょっと変わって」ます。

冬には冷たい南極颪が吹く南の斜面には木が植えられ,防風林。しかも,エネルギー下降時代に備えるかのように、燃料用,資材用の木もどっちゃり植えられていて、中にはすでに収穫できそうなほどに育っている木もあります。もちろん果樹やナッツの木もたくさん植えられてます。ポサム対策はどうしているのか、と尋ねると、野菜畑と果樹園は波打ちトタン板の塀で囲われています。なるほど、これじゃ、ポサムも上れない。農場はトラクターなしでも経営できるように設計したそうで、いくつかの小さなパドックに区切られ、動物の移動も簡単にできそうです。2時間ほど農場を歩き回りながら、自分のやろうとしていることと驚くほど似てる。そんな気がして仕方がありませんでした。

その夜は相棒と二人で採点しながら、ほとんど非の打ち所がないのに驚いてしまいました。ほとんど、その気になりながら、でも、こういう時はちょっと、興奮を冷まして見るべきだ。なんて言い聞かせ、明朝、もう一度尋ねてみることにしました。
(続く)

Monday, July 09, 2007

数週でお別れ/a long goodbye.

引っ越しの日へ向けてのカウントダウンが続いてます。あと3週間もすれば、20数年暮らしたオーストラリアにもさようなら。

というわけで、相変わらず、いろんな締め切りに追われながら、あれやこれやに忙殺されてます。これが見納めかとばかり、いろんな場所やいろんな人、都合のつく限り出かけるようにしており、今週末にはブリスベンまで、パンクの元祖、セインツの再結成公演を見に行くつもりです。かつて音楽関係の仕事を一緒にやってた奴とふたり、夜行列車で出かけ、彼の地に暮らすゴー・ビトゥインズの生き残りとも一献する予定です。

その後もアデレードやメルボルンにも足を伸ばし、それやこれやの一切合切にけりをつけ、強力な蹴りを入れ、来月の半ばからニュー・ジーランドの南島で新しい生活を始めることになります。

引っ越していく先は南島の第二の都会、ダニーデンの北80キロくらいのところにある海岸沿いの村外れにある農場です。南緯46度、日本近辺で比較すると稚内よりさらに北になります。

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今年の始め、「骨を埋める場所」をさがしにいって、ここにたどり着きました。因縁、とでもいうのでしょうね。何かに呼ばれていたのかもしれません。見つかるべくして見つかったのではないか、そんな気がして仕方がありません。

ニュー・ジーランドへ出かけてったそもそもの理由は、環境ゲテモノ化時代、オイルピーク時代という未曾有の時代に、ここにいたらヤバい。やっていけないぞ、救命艇となりうる場所を探そう、ということでした。そして、あちこち探しまわり、ある地所が気に入って、購入をきめてみたら、信じられないことに、その村はピークに関し,国のなかでももっとも熱心な運動を展開している場所でした。あちゃ。

いま暮らしている場所はやばいぞ、ピークなどの非常時には耐えられないかもしれない、そんな心配があり、この近くに「非常用の備え」として小川の流れる農場を借金したカネで買ってありました。ところが「千年に一度の干ばつ」のおかげなのか、「救命艇」は無惨にも息も絶え絶え、ひからびた姿をさらしているのを目にして、はっきりと決心しました。ここはだめだ。

引っ越し先はオーストラリア国内を、まず、あちこち検討しました。しかし、どこもかしこも似たような状態です。このまま、ここにいたらやばい。うかうかしていたら、乾いた大陸の上でアブラ切れになり、ひからびてしまうぞ。どうしよう。隣のニュージーランドはどうだろう。そんな危機感を抱いて、やってきたのでした。

この村にたどり着いたのは、そうして、北島の北端から始めた旅も6週目、オーストラリアを出る前に目星をつけた場所を中心に、いろいろな物件を見てまわりましたが、なかなかこれという場所にであえず、こりゃ、もうだめかな。表示は日本語、ラジオも日本向けのまま、ホンダのロゴって中古車の中で、最初から計画を練り直さないといけないかな、なんて話が出始めた頃でした。

気候ゲテモノ化時代やオイルピーク時代に望ましい住まいの条件はいくつかあります。

自然の条件として、水が手に入ること、これは重要です。水がなければ、人間も動物も植物も育ちません。とは言え、ゲテモノ化時代のこと、これまでの数字はあくまでも参考にすぎません。まあ、それを参考にしつつ、雨を作り出す森林の近くが望ましい、アルプスに源を発する大河のそばもいいかな。というくらいです。

大地の力はもっと、頼りになるかもしれません。ゲテモノ化時代に降水量や気候の変化は予測できませんが、土地の持つ肥沃さはとりあえず不変です。

ゲテモノ化時代の海面上昇を考慮すると、あんまり、海岸に近い低地は避けたい気がします。そして、ニュージーランドは日本のような地震国であり、温泉とか火山はありがたいけど、地震プレートの集合する巣のような場所は避けたいなあ。

人工の条件としては交通インフラが重要です。どんなにすばらしいパラダイスのような場所でも,クルマに移動や物流を頼らなければならないような場所はアウト。問題外です。ピーク以降の時代に、クルマに物流を頼る店は営業が難しくなり、そんな店に食料を頼る暮らしは先細ることが目に見えてます。とても暮らしていけません。自分が出かけることよりも、食料などの物資がどうやって自分のところに届くのか、そういう意味で交通インフラは重要です。

じゃかすかとクルマが使える時代が終息していく時、頼りになるのは鉄道や港湾です。

現在稼働中の鉄道路線や港湾がベストです。鉄道なら旅客と貨物,両方が走っていればいいのですが、とりあえず、貨物だけでもまあオーケー。ピーク以降の早い時期に旅客サービスも復活することでしょう。その次は、廃線になっているものの,線路などのインフラは撤去されずに残っている,そういう場所。鉄道が再び必要になるとき,まず、復活するのはインフラの残る場所です。

船についても同様で,現在港湾設備があり、稼働している場所がベストです。特にニュー・ジーランドや日本などの島国では、沿海航路がエネルギー下降時代の物流の主力になるだろうと思います。港、そして、いまは使われていないが,かつて港として使われた場所、自然条件が整った場所などがピーク以降の時代「交通の要所」として、再び復活することでしょう。

家の場所としては、これら、鉄道の駅や港湾などの「交通の要所」から遠くても30キロくらいの地点がのぞましいのではないでしょうか。ピーク以降の時代、食料などのモノが届くとすれば、こういう場所になります。まあ,このくらいの距離なら、自転車でえっちらおっちら、何とかなる距離です。それ以上になるとつらい。図書館や大学などの高等教育機関,古本屋にレコード屋,なんていう、知的なポイントがこのくらいの距離にあるとありがたい。これらは、あるといいなあという施設ですが、郵便局,銀行,店,医者などは必要な条件で、それよりももっと近いところ、1キロから5キロ、歩いていける場所にあるのが望ましいです。歩いていける距離にあるといい。

ってな条件を満たす場所で、しかも、農場とうちを売却した金で買える範囲で、自分たちの食料を賄えるほどの生産ができそうな場所をさがして回りました。

相棒も私も、事態は深刻化する、しかも、今年の夏あたりから加速するだろうと言う読みでは一致してますから、一刻の猶予もならないなんてことはわかりきっている。そういう時代の勢いというか、時の流れ、性急さを加味しながら、見て回る物件、訪ねた場所を採点しながら、ロゴをびゅんびゅんと飛ばしていきました。
(続く)

Sunday, July 01, 2007

催し物案内

切り貼り転載,催し物案内です。
自分が見たことのあるのは6の「エンド・オブ・サバービア(都市近郊暮らしの終焉)」というオイルピークの古典作品だけですが、これだけでも出かける価値があります。「米国の郊外の生活はいかに?」なんて、他人事じゃなく「アブラ漬けの現代人すべての生活はいかに?」です。近所の方は隣近所お誘い合わせてお出かけください。
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第4回東京平和映画祭のお知らせ


7月7日(土)に開かれる今年の東京平和映画祭。テーマは、「食、農業、エネルギー」「戦争と平和」「過去から未来へ」。
明日からの考え方、生き方のヒントが満載。安い参加費で8本も見られて超お得です。(2、3本見れば元は十分とれます!)

(この2,3日、予約が急増していますので、なるべくサイト上でご予約ください。)

◆上映映画:
1.『食の未来』(D.ガルシア監督・2004年・90分):
  米国の遺伝子組み換え作物による食品支配の現状が分かる
2.『サルー・ハバナ』(井坂泰成監督・2006年・33分):
  都市有機農業で自給に成功したキューバをレポート
3.『戦争をしない国 日本』(片桐直樹監督・2006年・90分):
  憲法9条をめぐる今日に至る経過を克明にレポート
4.『軍需工場は、今』(小林アツシ監督・2005年・41分):
  日本の軍需工場で働く人々の現実が分かる
5.『911スペシャル』(きくちゆみ解説&映像・2007年・60分):
  911同時多発事件の真相とは? 映像と解説で綴る
6.『エンド・オブ・サバービア』(G.グリーン監督・2007年・80分):
  オイルピークとは何か?米国の郊外の生活はいかに?
7.『懐かしい未来』(ジョン・ベイジ監督・2004年・55分):
  ラダックの伝統的な文化から学び未来へとつなげるヒント
8.『地域から始まる未来』(レンダー・ワード監督・2004年・25分):
  グローバリゼーションのあり方を問う

◆日時:2007年7月7日(土)開場9:30 開催時間10:00〜21:00
 
◆会場:国立オリンピック記念青少年総合センター・
      カルチャー棟 大ホール(757名)
      渋谷区代々木神園町3-1 
      <アクセス>小田急線参宮橋駅下車徒歩7分
      http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
◆参加費:29歳以下 会員1,500円・一般2,500円
       30歳以上 会員2,500円・一般3,500円
 ●一般チケット:チケットぴあ各店、電子チケットぴあにて
好評発売中!
           [P -コード:552-982]
 ●サイトでも、当日会場でも、『東京ピースフィルム倶楽部』に入会と同時にチケットを会員価格で購入可!
◆託児サービスあり。要事前予約。takuji at peacefilm.net
◆主催:「東京ピースフィルム倶楽部」
★【問合せ先】事務局:浅野 TEL:090-4459-3020
mail:info at peacefilm.net
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